三日目。今年は、また雪が降った。
真壁の存在を仮定し、真壁にお誘いを掛けた身として、真壁には申し訳ない。この街もだいぶ寒くなった。嘗て君がいた頃より、日本という国は暮らし辛くなったかもしれない。雪を見ると、私も憂鬱になる。『椿色のプリジオーネ』が頭に浮かび、時を止められた人間達のことを思い出すからだ。
二次エロ文化の世界において、時は止められていることが多い。
誰だったかは、それを「終わりなき日常」の表現であると言っていたっけ。
しかし、その「誰だったか」の頭の中にあるのは、泣きゲと言われるようなもの達に関してのそれだ。抜かれることに徹したもの達への言及ではない。もっと言えば、手法的にも限定されており、同じ時間が現実に繰り返されるという世界観のものに対しての発言だった。
これから語る「時の停止」は、意味的にも手法的にも、それとは違う話だ。この「時の停止」は、エロい。そして、エロいからには、真壁の真実にも近い。だから語らなければならない。
ここで、最初に考えておかなければならないことがある。物語における「時の停止」とはどういうことを指すのだろうか。
私は、雪を見ると憂鬱になると言った。時を止められた人間達のことを思い出すからだと言ったが、実際にイメージしてもらいたい。祖母が亡くなったと聞いて、山奥の実家に帰ることになった。駅からは離れているので、親戚に迎えに来てもらう。「お久し振りです」と車から出てきた彼には、幼い頃に遊んだときの面影が残る。「東京の人に、この雪は辛いでしょう」山沿いの道を行けば、一面がくすんだように白い。そんなときに、私達は次のように表現することが許されている。「時間が止まっているみたいだ」ここでいう「時の停止」とは、そういうことだ。想いの土くれが、何故かそこに静止している。
『緊縛の館』は「停止」する物語だった。
この物語で最もエロティックな瞬間は、幸雄が記録の存在を知ってしまったときだろう。この物語に生きている三人には三人共に意志があるのに、館の因習がそれを食らい尽くす。そして、悦楽がその両方に加担している。エロティックな物語として、そこにエッセンスがある。
玲花が悦楽の世界に身を堕としたのはその為だ。確かに、彼等は館に呑まれてしまったのかもしれない。しかし、彼等の心の生き場所もそこにあったのだ。見た目上は同じ場所にあるそれを、玲花は探し続ける。その「停止」の在り方が哀しい。
今日、この街にも雪が降った。でも、直ぐに止んだ。君のいる世界は、やはり寒すぎるような気がする。
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